あらすじ
十一月の午後、量子情報理論を研究する物理学者・奏のもとに、一本の電話が入る。母・律子、急性心筋梗塞。享年六十三。朝は味噌汁を作り、洗濯物を干していた。その手は、もう動かない。
奏の専門は「ユニタリ性」——宇宙において情報の総量は決して変化しないという原理の証明だった。情報は失われない。それを数式で書ける。なのに、母の声がどこにあるのか分からない。「ごはんよ」と呼ぶあの声は、宇宙のどこに保存されているのか。
寺の老僧は言った。「祈りとは、散逸した情報に手を伸ばす行為です」。恩師は告げた。「君の体内には、今もお母さんの細胞がある。比喩ではない。事実だ」。母の本棚には、宮沢賢治の一節に鉛筆で線が引かれていた。
物理学と祈りが同じ場所に辿り着くとき、一皿の卵焼きが、すべてを証明する――。