あらすじ
北辺フェルゼンの辺境伯に嫁いで3年、エインハルト伯爵家の末娘リリは、夫に一度も名を呼ばれたことがない。
結婚式の朝、花婿は、くちづけを拒み、
『愛することはない』
と宣言した。それから3年、この家で、リリを名で呼ぶ声は、一度もない。
使用人は『奥様』、夫は『あなた』『ご婦人』『私の妻』。3年の歳月を、リリは、亡き母が仕込んだ花の刺繍だけを頼りに凌いできた。ここはもう自分の家ではないのだと、毎朝、言い聞かせて。
ある日、3年ぶりに書斎から出てきた夫が、初めてリリの目をまっすぐ見て言う。
『今夜、付き合ってほしい』
冬の終わりの四阿。差し出された湯気立つ茶器の配合は、亡き母がリリにだけ淹れていた、あのお茶のものだった。
――北辺には、古い掟がある。
3年沈黙した人の声が、今宵、初めてリリの名を呼ぶまでの、一夜の物語。
※ハッピーエンドです。