あらすじ
「半径3メートル。これは、自分の手の届く範囲、という意味です」
入社式の朝、遠野CTOがホワイトボードに書いた三つの言葉、「半径3メートル」「両輪」「観察」。その最初の一語が、桐谷蒼太の一年目の指針になった。
桐谷蒼太、二十二歳。四方を山に囲まれた人口三十万の盆地・港川市。創業五十五年、社員百一名の中小IT企業、株式会社ヨキエルに、新卒で入社する。配属はチームA。同期は六人、先輩は三人、マネージャーが一人。
その日の夜、蒼太は駅前の文具店で買ったばかりのノートに、一行だけ書いた。
——観察を、始める。
半径3メートルの中に、二人の先輩がいた。コードレビューにすぐ「LGTM!」とだけ返してくる先輩と、丁寧に二十二件のコメントを返してくる先輩。どちらも、たぶん、優しさ。ただ、同じ優しさのはずなのに、何かが違う。配属初日に何度も聞かされた「うちは優しい人ばっかりだから」の一言が、わずかに引っ掛かる。
蒼太は手の届く範囲の観察を、ノートに書き留めていく。先輩の言葉、マネージャーの機嫌の波、同期六人の語尾の差、月例の社内勉強会で遠野CTOが書いた一語、初めての賞与の明細と父の言葉、初めて本番リリースに乗った夜、夏祭りの浴衣、資格をめぐる業務命令、居酒屋で聞いた二人の料理人の話、一月に折れた友。書き続けるうちに、半径3メートルの中で、二種類の優しさの輪郭が、少しずつ像を結び始める。
季節は春から夏、秋を経て、冬の港川市へ。
一年分のノートを読み返した三月の末、蒼太はまだ言葉にならない何かに気付く。
桜並木通りに、また春が近づいている。
——観察するだけの一年は、今日で終わる。
群像と内省で描く、新卒エンジニアの一年目。