あらすじ
昭和三十年代、冬の夜。坑内で崩落が起き、少年二人が閉じ込められた。救出されたのは「相馬泰生」。もうひとり「神津光男」は殉職者名簿に刻まれ、町は葬列を見送った。
半世紀後、ダム建設の最終段階。水没区域の立退きが完了し、翌朝には締め切りゲートが閉まる。空は乾き、風が強い。老いた男がバスを降り、誰もいない商店街を歩く。彼は相馬泰生——と、町は信じている。しかし彼の口は、別の名を名乗る準備をしている。
町史編纂室で働く若い女性・神津杏は、殉職者の妹だった。彼女は老人の手から、煤にまみれた札を受け取る。坑口に下りる前に差し替えた「通行札」。それが記録をすり替え、人生を入れ替えた。会社の黙認、家族への償い、友情の線引き。老人は言う——「友情を埋めたのは、国でも、神でもない。俺だ。」
冷静な筆致で、事実と心理が交差し、最後にひとつの嘘がごく小さな優しさに置き換わる瞬間までを描く。町が水に沈む前夜、風だけが証人になる。
これは、風に葬られた町と、名前を入れ替えて生きた男の、遅すぎる自己紹介である。
登場人物
相馬 泰生(そうま・やすお):記録上の生存者。実際は事故で死亡。
神津 光男(こうづ・みつお)→“相馬泰生”を名乗って生存:主人公(現在は82歳)。半世紀の嘘を抱え、町に戻る。
神津 杏(あん):町史編纂室の臨時職員(27)。殉職者・相馬泰生の“名で生きた男”の告白を記録する。実は殉職者・相馬の妹の娘(=“亡き友の家系”)。
柏原(かしわばら):元坑内監督(当時20代)。事故時の会社側窓口。老境で介護施設入所中。
遠野(とおの):県企業局ダム建設課。水没前の安全管理担当。
祠の宮司:地元の水神社。風葬(紙垂を風に放つ)を取り仕切る。