あらすじ
人間は善なのか。
それとも悪なのか。
あるいは、生まれた時点では善でも悪でもなく、環境によってどちらにも染まる存在なのか。
この問いは、昔から繰り返されてきた。
人間には本来、善へ向かう性質があると見る考え方がある。
いわゆる性善説である。
人間は放っておけば欲望や利己心に流れ、悪へ向かいやすいと見る考え方がある。
いわゆる性悪説である。
人間は生まれた時点では善でも悪でもなく、環境や教育によって変わると見る考え方もある。
性無善無悪説と呼ばれる考え方である。
どれも、人間を理解しようとするうえで一定の意味はある。
だが、私はこれらの分類だけでは浅いと考える。
なぜなら、人間の善悪は「本質が善か悪か」という単純な問いだけでは説明できないからである。
人間は、まず生物である。
理性ある存在である以前に、欲望を持ち、恐怖を持ち、自己保存本能を持ち、快楽を求め、苦痛を避ける獣としての性質を持っている。
そこに無知が加わる。
無知な人間は、自分の行動が何を生むのか理解できない。
他者の痛みを想像できない。
長期的な損害を予測できない。
社会全体への影響を見通せない。
悪意がなくても、害を生む。
さらに、そこに感情、自己保身、集団心理、怠惰、嫉妬、優越感、責任逃れが加わる。
この状態の人間を、ただ「善である」と言うのは甘い。
ただ「悪である」と言うのも粗い。
ただ「白紙である」と言うのも現実を見ていない。
人間は善でも悪でもない、というより、善にも悪にも傾きうる性質を持つ。
そして、その傾き方は、教育、道徳、倫理、論理、前例、罰、報酬、制度、環境によって変わる。
善悪とは、人間の本質だけで決まるものではない。
善悪とは、人間の性質がどのように制御され、どのような行動として表に出るかの構造である。
本書では、性善説、性悪説、性無善無悪説を入口にしながら、人間の善悪をより構造的に考える。
人間は善なのか。
悪なのか。
白紙なのか。
私は、その問い自体を少しずらしたい。
本当に問うべきなのは、人間がどの条件で善へ向かい、どの条件で悪を生むのかである。