あらすじ
春の終わりの夜。山あいの城下町「月代」の稲荷社で、社務所の明かりを落とした咲月は、裏鳥居の先から甘い湯気の匂いを嗅ぐ。そこに立っていたのは、昨夜まで無かった朱塗りの茶楼――「月下茶楼」。卓の向こうで湯呑みを差し出したのは、点心職人の蒼生だ。咲月の掌に戻ってきたムーンストーンが淡く光り、霧の奥の城下「龍城」と月代の境目がずれ始めていると、蒼生は静かに告げる。
祓い札を握る咲月は、怒る暇もなく餃子を勧められ、月餅と団子を食べ比べさせられ、霧の石畳で迷子犬を追いかけ、雨の夜には雑巾を奪われて指先を温められる。口が悪い屋台の仁愛は「腹が減ると帰りたくなるぞ」と怒鳴り、段取り命の乙女は案内板に「月代側へ」「龍城側へ」と矢印を増やし、最後にでかでかと「まずは一服」と書き足して笑わせる。仁愛は「叱る声があると客が安心する」と勝手に持ち上げ、咲月は眉を上げながらも、茶楼を守る手が止まらない。帳簿を「明日こそ」と挟み続けた咲月は、帳面みたいに気持ちを後ろへ挟む癖をほどき、泣きそうなときほど先に言う練習を重ねる。
蒼生は火傷を隠し、八角の香りを加減し、獅子頭を抱えて秋祭りの夜に境目を押し戻す。割れた石の欠片を合わせたとき、ひびは消えず、青白い筋と朱い筋が並んで光る――二つの街が同じ月を映す印だ。咲月は「見送るのが嫌い。離さない」と言い、蒼生は「帰ると言葉を盾にして逃げていた」と吐く。ふたりは茶楼を“間”に祀り、帰る場所ではなく会える場所にすると誓う。
満月の橋が薄れても、炉の火は沈まない。紅葉の残る朝、咲月は帳面を閉じ切り、桂花の香る点心を齧って「好きだよ」と今日言う。龍城の客とは甘酒の搾り粕を交換する約束を結び、子どもたちの「二つとも好き!」に胸を温める。湯気の向こうで「ただいま」「おかえり」が重なり、和と中華が重なる屋根の下、夫婦茶楼は月代と龍城の灯をあたため続ける。