あらすじ
この家は、燃えていない。
けれど、ずっと熱を持ったままだ。
主人公は七十歳の母親。
長い人生を「正しさ」と「責任」で支えてきた人だ。
子どもを育て、親を見送り、
気づけば自分の居場所は、
家の中心に固定された“議長席”だけになっていた。
間違ったことはしていない。
むしろ、ずっと正しかった。
それなのに、夜になると息が詰まる。
理由は分からない。
分からないから、誰にも言えない。
この物語は、
そんな七十歳の母を、真正面から救おうとしない。
語り手は、少し年下の男だ。
彼は英雄でも、カウンセラーでもない。
ただ、ボロボロの体を引きずりながら、
「一緒に沈まない」という選択を続けている人間だ。
彼がやっているのは、
夜のカラオケボックスに一人で入り、
歌を歌うことだけ。
上手くなくていい。
前向きでなくていい。
ただ、声を出して、
今日をやり過ごす。
ある夜、彼は一曲の歌を、
言葉を添えずに、
七十歳の母へ送る。
既読はつかない。
何も変わらないかもしれない。
この物語に描かれるのは、
劇的な和解でも、家族の再生でもない。
ほんの一ミリ、
世界のリズムがずれる瞬間だけだ。
この小説を読むのは、
四十代の子ども世代かもしれない。
あるいは、七十代の親自身かもしれない。
もしあなたが、
「親が重い」と感じている側でも、
「子どもに迷惑をかけたくない」と思っている側でも――
この物語は、
誰かを変える話ではなく、
誰も壊さずに今日を越えるための物語だ。
カラオケという、
あまりにも身近で、
あまりにも誰にも期待されない場所から始まる、
静かな生存の記録。
読後に残るのは、
答えではなく、
「今日は沈まなかった」という感覚だけ。
それでいいのだと、
そっと教えてくれる物語である。