あらすじ
寝室の扉は、十年、開かなかった。
侯爵令嬢から伯爵夫人になって十年。
セレスティーヌは、夫の屋敷で、家令の役だけを担っていた。
夫は誠実な人柄だった。
ただ、乳姉妹を家族同然と呼び、いつも彼女を最優先した。
「君なら、分かってくれるだろう」。
その言葉を、もう何度、聞いただろうか。
社交界は気づいていた。
使用人たちも、夫の母さえも、知っていた。
気づいていなかったのは、夫一人だけだった。
そんなある日、隣国レゼリアの王弟が、屋敷を訪ねてきた。
彼は、五年前から、セレスティーヌの筆跡を、知っていた。
誰にも見られていないと思っていた十年を、見ていた人が、いた。
セレスティーヌは、ある場所から、静かに降りることを決める。
怒りからではない。
自分の名前で、もう一度、呼ばれたかった。
席を譲り続けた女が、自分の隣に置く椅子を、選ぶとき。
彼女の手のひらに、何が、残るのだろうか。