あらすじ
河内の小さな渡しで育った書吏・徐文は、帳付けの父から「紙は刃より怖い」「明日の鍋のために書け」と教わる。父の死後、彼は数字と段取りで暮らしを守る術を身につけ、黄巾の動乱で席を失い旅に出る。道中、井戸縄や米蔵の風通しを直し、嘘の種類(腹・面子・首を守る嘘)を「手」で見分け、配給や修繕で人々の腹を少しだけ太らせていく。古い祠で出会った謎めいた男から「風下に座れ」と聞き、半歩ずれる生き方—名誉より生存、刃より紙—を胸に刻む。モチーフは台所で学んだ「粥」、帳面に打つ「点」、身を守る「風下」。それらを合言葉に、徐文は誰の旗にも偏らず、しかし誰の鍋の音にも味方する書き手として成熟していく。やがて冀の北、涿の市に近づくと、人々が名を呼び合う気配と、冬芽ふくらむ桃林の匂いが濃くなる。噂はまだ霧だが、志の芽吹きは確かだ。徐文は紙束を衣の内にしまい、桃のつぼみが微かに鳴るのを合図に歩を進める。物語は、三人の若者が足並みを揃えようとする「桃園前夜」で幕を開ける直前、静かに止まる。