あらすじ
夫の幼なじみが世界一になった日、彼は私が自分を傷つけるのを恐れて、生配信さえ見ようとしなかった。
東京都北区の古いアパートで、彼は私のそばにいて、ただ一緒に録画を見ていた。
画面の中で、桜庭美緒は真紅のラテンドレスをまとい、ブラックプールの舞台の中央に立っていた。
そのドレスは、本来なら私のものだった。
私は車椅子に座ったまま、画面の中で揺れる裾を見つめていた。
息が、少しずつ苦しくなっていく。
また脚が痛み出した。
私は車椅子の肘掛けを握りしめ、低くつぶやいた。
「苦しい、蓮。私、苦しいよ」
黒瀬蓮はソファの端に座り、ずっとテレビを見ていた。
私の声を聞いて、彼はようやくこちらを向いた。
一度だけ。
たった一度だけだった。
次の瞬間、彼はソファのクッションの下から果物ナイフを取り出し、私の足元に放り投げた。
ナイフが床に落ちて、乾いた小さな音を立てた。
「苦しい?」
「だったら死ねば?」
「毎日苦しいって言ってるくせに、本当に死んだことなんてないだろ」
私はその場で固まった。
ごめん、と言いたかった。
けれど喉に何かが詰まったようで、一文字も出てこなかった。
その時、彼のスマートフォンが鳴った。
着信音は『Dance Monkey』。
桜庭美緒だけに設定された着信音だった。
彼はほとんど反射的に身をかがめ、スマートフォンを取った。
「美緒」
その声は、一瞬で柔らかくなった。
私が知っている彼とは思えないほど、優しい声だった。
「おめでとう」
「うん、見たよ。すごくよかった」
私はうつむき、床に落ちたナイフを拾った。
そして、自分の部屋へ戻った。
もう、限界なのだと思った。